おやじのプロフィール

昭和43年
 都内某電機メーカーに就職が決定。タガが緩んだのか、親から貰った大事な大事な足代をバンド仲間と飲んでしまい、やむなくヒッチハイクを決行。

 2日後無事多摩川を越え蒲田到着。五反田での入社式を無事済ませ蒲田のアパート、品川の職場、新宿ジャズ喫茶街の3点生活に突入。電気ポットにインスタントラーメンを投げ込み、それを啜りながら安ウイスキーを飲む、という生活が祟り若くして初期の肝硬変になる。

 そんなある日、友人の葬儀で帰郷の際、故郷の空の蒼さに魅了されUターン治療を決意。タイヘン惜しまれながら退社する。
昭和46年
 帰郷後即入院、ぶっとい注射器で100日間に渡り投薬されるも病状の改善が見られず、仕方なく無断で病院を抜け出し、「噂で聞いた瓦屋」のじい様が調合する怪しげな薬を服用、見事完治する。

 体力づくりと金欲しさにハヤリのちり紙コーカンを始めるが、紙には見向きもせずひたすら車の解体、金属の回収に従事し、3年後100坪の土地を持つまでに財を成す。

 うーーーん、ここまではヨカッタ。がここで発病。(今度のビョーキは何じゃろかな?)
昭和50年
ド、ドーシテモジャズ喫茶がやりテエ!の一念に駆られ、土地・家屋を 売却するや材木問屋に走り、10坪の店を作る。当初90枚でスタート(信じられる?)したレコードも2年後には600枚になり、お客もぎょーさん来ておったが、ドーモ雰囲気が違う。客がうるさい、よー喋る。ヴォリュームを上げれば向こうも負けんように叫ぶ、というようなことで あっさり閉店。

 レコードとオーディオ等備品を売却、その殆どを飲む。(九州男児は思考 が短絡的で困る)あ!俺だけか、すまんスマン。
で、昭和54年
 又発病。 残った金を持って竹林に走り込み、竹切りあんちゃんと化す。2週間後、竹の青さも美しく店内を改装、純和風居酒屋「庵屋」を開店。地取れ伊勢エビのお造り、ナドという物を供し順調な売り上げを上げるが、盆、暮れに帰郷するジャズ・ファンを大いに嘆かせる。

すまなんだナあん時は。

昭和55年
 最後の砦を失った、熱烈常連ジャズ愛好家の強い要望を受け 又々発病。

 彼等から多額の個人的な借金を受け屋号を元に戻し、現在の 店を開店。不足を信販会社から借りて運が尽き、2年後早くも 関係各位に多大な迷惑をかける。店内送電打ち切り45日目、3日後に迫ったライブの件でサックスの梅津氏よりTEL。

 窮地に一勝を得、辛くも救出される。

 D・U・Bのボランティア・ライブで再起動した店は、平成7年20周年 を迎え、中央から遠く離れた店が願って止まない連夜のライブを6日間に渡って敢行。延べ400人のお客を魅了する。多くの人たちの手で 生かされているライフタイムは、2000年の現在まで月1~3回、国内外で活躍するミュージシャンを招聘。又、週2~3回宮崎在住のプロ・アマのミュージシャンにジャムセッションの場を提供している。

 当店での有料ライブのお客動員アベレージは40人、

 一方、会館サイドでは1000人。

 いったい宮崎のジャズ・ファンは、ド、ド、どーなっておるのダ!



草野 賢治郎
趣味:釣り